「Perfect Blue」

 騒々しさもこれだけ遠く、ドアを隔ててしまえば。とても低く、わずかに聞こえてくるだけのBGM。

 そ…っと、この頬に指先の当たる感触。その整えられた長い爪に、
 傷の一つくらい付けられてしまいそうな…錯覚に、苦笑する。

 こちらの気持ちを誘うように、静かに…ゆっくりと近付いてくる、艶(つや)やかに紅い唇。

「…その色を移されるのは、遠慮したいんですけどね?」

 拒む必要も無いものを、ほんの少しだけ…の意地悪。

 そんな言葉に君は、悪戯(いたずら)っぽく微笑って。俺の頬から、指を滑らせて…落とす。
 そんな長い爪が、何故邪魔にならないのか不思議だが。
 この…胸の上から、そちらに視線もくれてやらないまま、薄い布地だけをあっさりと摘(つま)み上げて。
 また…一際悪戯っぽさを増した、いっそ…小悪魔的な笑みをこの目に見せてから。

「…これで、文句無いわね?」

 胸の中に口付けてくれるように、ヒトのシャツにその唇を思いっきり押し当ててくれて。
 白い布の上に、鮮やかな…唇の形と色。

「やってくれますねえ」

「上着を着てる限りは、見えないわよ?隠せない所じゃ無かった事を、感謝なさいな」

 そう動く唇は、先程までよりは少しばかり艶を失って、わずかに薄い色もして。

 …それでも、十二分に蟲惑(こわく)的。

「…洗濯に出せば、バレちゃいますよ」

「面倒なら、捨てなさい」

 近付く顔を、わずかに支える為だけに触れる、俺の手と。在処(ありか)を知る為だけに、この頬に触れてくる君の、細くて白い指と。
 互いのくだらない悪戯に、先延ばしにされていたキスを、やっと今頃。
 殆ど…触れているだけ、その…時間だけはやたらと永くて。
 何処にも、力を入れようともしない。ひどく求めているようで、何にも求めていないような、そんな口付けを。

「…やる気無いわね?」
「…お互い様でしょ?」

 お互い、どうにも…真剣になり切れない。

 そうなってしまうには、どちらも…心の奥底から感情を引っ張り出せない不器用さを備えているから。
 それと分かっている者同士が、現在(いま)の空虚を埋め合っているだけ。

「やる気は良いから、真面目にやって頂戴」

 矛盾を含んだセリフと人差し指が、眼鏡のブリッジをわずかに引き下ろす。

「難しい事、言いますねえ?」

「ガラス越しに、私(ひと)を見るものじゃないわ」

言いながら、この距離にも器用に、両手で挟み込むようにして俺から眼鏡を取り上げてしまう。

「…はいはい。後で、返して下さいよ?」

 口調だけは、やれやれ。降参しました、貴女には敵いません…と。
 しかし、この両手はその肩から滑り落とすように…背中まで。

「無くても、困らない人が何を言ってるのよ…」

 戦利品(めがね)を右手に握ったまま、彼女の両腕はこの頭の脇を後ろにすり抜けていく。

「困らなくても、必要なんですよ。俺には」

「…後で、ね…」

 お互い、言葉とともに両の腕に少しずつ力を強めて。否応無く、また…顔が近付いていく。

 今度のキスは、唇ではなく…腕の力で。さっきよりは、どうしようもなく強く…深く、永く。


                                ◇  ◇  ◇  ◇


 心は、きっと…さほど近い所には無い。そんな事はお互い、最初から承知。
 それでも。
 重ねる唇、絡み付いてくる腕。触れている場所(ところ)から伝わってくる温かさに、その…体温がひどく愛(いと)しく感じて。

 …錯覚だ、分かってる。

 見た目ほど成長出来ていない、孤独を厭う子供のままの心の内。愛されているような、錯覚。
 その心までも、この傍に在る…との、とても身勝手な。

 心の間隙は、想いでしか埋め立てられない…と理解出来るほどにまで、時間を過ごしておきながらも。
 身体の温かさを、自分に注(そそ)がれる想いの温かさだと、思い込んでみたくて。

「…嫌いじゃないわよ?」

 愛してる…とまで、言ってくれなくて良い。時々、ひどく…その口から「好き」だと言わせてみたくて。
 真剣さはどうしようもなく隠したまま、軽く問うてみても…返ってくるのは「嫌いじゃない」とだけ。
 いつも、いつも。

 …そうだね、分かってる…。

 どちらかが真剣になってしまったなら、きっと…それでお終(しま)い。
 自分の気持ちも、相手の心も…どちらもが怖くなってしまうから。

「…だろうね。俺も、嫌いじゃないから」

 君の…体温が。それに錯覚させられる、自分自身の愚かさも。取り敢えずは…満たしてくれるから、この寂しさも、空虚さも。

 …俺は、瞬間(いま)。何に、恋してる…?

 唇は、もう良い…と。その顔を、捻(ひね)るように外してしまう。
 ほんの少しの名残惜しさも感じながら、それでも…目の前に在る首筋から肩に掛けて…に、口付けて。
 大きく開いた背中を、右手は静かに優しく撫で下ろしていく。
 初めて…じゃないから、また…いつもと同じような手順。いつの間にかすっかり出来上がってしまった、2人の間のマニュアル。

 …それから大きく外れてしまえば、うっかり…本気になってしまいそうで、怖いから…。

                   



                                    ◇  ◇  ◇  ◇


 そろそろ…と、裾を持ち上げていく。
 これほどしなやかで滑らかな布地も、重力が引き下ろそうとするから…どうしても、ひどくゆっくりと。

 ようやくに、スリットにまで辿り着いた指先は。やっと、その脚…に触れて。
 今までドレスに隠されていた分だけ、ひどく…温かく、柔らかく感じて。

「…脱いでよ」

 そうやって辿り着くまでの時間の長さに、もっと…容易(たやす)くはっきりと体温が欲しい…と,、ちょっとばかりわがままに請(こ)えば。

「…それくらいの手間は、楽しみなさい」

 脚の付け根から、腰まで撫で上がってきた指先の感触に。
 その身体は微かな…でも、明らかな反応を見せながらも、口だけは…強気に。

 最初はどうにも途惑った、女性の服装も。分かってしまえば、ものすごく簡単に解(ほど)けてしまう代物で。
 元々、背の大きく開いている今日の格好だと、肩さえ落としてしまえば…腰だけがようやくに引っ掛けて留(とど)めているようなもの。

「…ん…」

 声と言うより、仕方無く零(こぼ)れる吐息。そんな声の全てが、この耳をくすぐっていく。
 自分のものではない声と、自分には在り得ないラインと。

 今、他人(ひと)と居るのだと思い知らされて、尚更その体温に溺れそうになる。

 いや…きっと、既に溺れてしまってる。
 …独りは、嫌い。だから…誰でも良いから、傍に居て欲しくて。

 掛けるには、2人でまだ余る椅子も。寝てしまうには、1人でも狭っ苦しい。
 半身を預けるには楽な、椅子の背も。横になった場合には、ひどく窮屈で。

 座面と背に挟まれて、簡単に逃げられない。空間として、彼女をそこまで追い込んだのは、俺。

 だけど…実際に、追い込まれてしまっているのも、俺。
 重力に任せて、重ねる唇。ほんの少しの、無言。
 きっと、今からでもあっさりと…立ち上がって。艶然と…彼女は、また喧騒の中にも戻っていけるんだろう。
 けれども、俺の方は。たった今、触れている温かさを簡単に振り払う事が出来そうに無くて。

「…聞かせてよ、声…」

「…貴方次第じゃなくて?」

 …ほら。また否応無く、君の言動に俺は…心が追い込まれていく。
 一時(いっとき)の自分の精神の安寧の為に、こんなに安々と背を押されて。

 だから、また繰り返す。

                                    ◇  ◇  ◇  ◇

 須(すべか)らく、楽器というものは奏でる者が居ないと歌わないもので。女性も…触れる者が居なければ、鳴かない。
 音の良い楽器は、作られたその時から。弾き手の腕は、そこまでの慣れ…と経験次第。
 巧く弾きさえすれば、元々の過敏さがその身体に、間違い無い反応として表してくれて。
 その吐息と声と、姿態に、また2人ともが煽られる。

 手の中に、ほんの少しの力で簡単に形を変える柔らかさが在って。
 今はもう、わずかに朱を刷いて、ほんの少し汗ばんできた…それでも滑らかな肌に、いっそ…この指も手も埋もれてしまえば良いのに。
 何に耐えかねて、精一杯にしがみ付いてくる腕が。不規則に乱れた吐息と、声の熱さを、この耳元にひどく撒き散らす。

 吐息(いき)の掛かるほど、誰かが…ゼロ距離に居る。
 指先に、手のひらに、腕に。耳に、頬に…首に。誰かの体温を感じて、独りじゃない…という事に溺れて沈んでいく。
 …瞬間(いま)、傍に居てくれているのは…誰?

 思考が、途切れて消し飛ぶ。どうにも…大きく膨れ上がってしまった、満たされたい…という欲求だけが、細かく弾け飛んでいく。
 意識に霧が掛かって、時々…暗転(ブラックアウト)。

 …僕だ。
 僕が、俺の傍に居る。


                                    ◇  ◇  ◇  ◇


「…後で、出ますよ」

 どうするの…と問われて、そう…答える。

「ほら…ちゃんとなさい」

 椅子の背に、背と肘を預けたままで居る俺の、襟を掴んで軽く引っ張り上げて。また…最初と同じように、窮屈に直されて。
 仕方無く、ほんの少し上を向かされていた口元が、ふくよかな柔らかさに一瞬だけ塞がれて。

「…返しとくわ」

 器用に、いつかに奪われた眼鏡を、俺の顔に戻して。

「返してもらえないのか、と思ってましたよ」

 苦笑しながら、そう言ってみれば。

「次までの人質に、預かっておくのも…悪くなかったわね」

 そう…君は、艶然(えんぜん)としてみせて。何も無かったように、長い裾を見事に捌(さば)きながら部屋を出て行って。

 1人、残された俺は…。

「…君は、強いよ…」

 そう…呟いて。
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                 大人の雰囲気いっぱいのしっとりしたお話を書いて下さいました。
                 ヤマトクルーのどなたが主人公か、お読みになった方にはおわかりですね♪

                          美馬龍樹さん お話をありがとうございました♪  (2005・2・26公開)