(2)

あの日、私は点滴につながれた重い体を引きずるようにして屋上に出た。

屋上と言っても周囲を大きな大きなドームで完璧に覆われた檻の中。

以前はドームなんてなかったんだけど、日増しに悪化する自分の病状と地球の状態に絶望して
飛び降りる人が増えて、外が見える透明のドームをかけたと誰かから聞いた。

・・・そうよね、右を向いても左を向いても、
上を見ても下を見ても光が少しも見えないんだもの、
そんな気持ちにもなるわ。

足元のプランターに咲いた小さな花。
こんな小さな花でさえ元気に咲いている。

葉っぱだって活き活きとしてまるで『私は健康なのよ。』と言っているみたい。


・・・憎らしい・・・


つん・・・と、そんな気持ちが私の中に入って来た。



どんなに願っても、私は元気になんてなれないのに・・・!




限られた空間で、限られた人たちとしか接することがなかった私は、
それまで妬みや憎しみというものをそんなに強く感じたことはなかった。

それが、あの時の私はそんな感情を、ただ咲いているだけのあんな小さな花に向けてしまったのだ。



何よ、何よ!・・・何よ・・・!!



左手で点滴スタンドを掴むように持って、無抵抗の花に向かって右手を広げて右半身を下げようとした時、



ぐにゃり・・・



ふいに目の前が歪んだと思うと、視界が狭くなって自分の手の色が灰色に見えた。

(まただわ・・・)

そう思った時だった。



「危ない・・・!!」


という声がしたかと思うと、今度は目の前が真っ白になった。

「大丈夫?」

その声に私はとっさに無言で頷いた。

私が倒れてしまわないようにと、しっかりとだけど優しく背中に回された腕

・・・お父さんのみたい。


「君・・・ここに入院している子、だよね?」



途切れがちに優しく聞かれた問いに、私は目を逸らして頷いた。

引き締まった腕と、日に焼けた肌に真っ白いシャツ。
それにこの人、背が高い・・・
お父さんよりも、ずっと。

「顔色が良くないよ、病室まで送ろうか?」

「いやっ!!」

自分でもびっくりするような声が出た。
私を支えたままのお兄さんも、目を丸くしている。

だって、部屋に戻ったら良くないことばかり考えてしまう。
あそこには希望なんてないんだから・・・。

「ん――、じゃあ、あそこに座ろうか。」

指差した木陰のベンチを見た私は、また無言で頷いた。


「大丈夫?」

私の手を取ってゆっくりとベンチに座らせたお兄さんは自分も隣に座って心配そうに言った。

顔つきはちょっと怖そうに見えるけれどその眼は優しそう。


トクン・・・


少し落ち着いたせいか、何となく胸の高鳴りを感じる。

私の知っている男の人は、病院と病院学級の先生、お父さん、
それから同じ病気で入院している何人かの男の子たち。

当たり前だけどその人たちの誰からも感じられないものをこの人からは感じる。

「あの・・・ごめんなさい。」

気持ちが落ち着いて、そんなことに気が付いたら自分の取った態度が急に恥ずかしくなった。

「え?」

「あの・・・。」

初めて会った人だと思うと、余計に上手く言葉が出ない。

「そうだなぁ、女の子にあんなふうにハッキリと拒否られたのは初めてだ。」

「え?」

今度は私が聞き返した。言っていることがよくわからない。


「真っ青な顔をして今にも倒れそうだったのに、あんなに大きな声が出るんだから大丈夫だ。」

お兄さんはそう言うとハッハッハと声を立てて笑った。


――大丈夫――

そんなこと、こんなにハッキリと言われたのは、多分初めて。


いつも

『自分は大丈夫なつもりでも、体はそうじゃないこともあるのよ。』

『あなたは無理できないんだからね。』


―――そんな言葉しか投げかけられなかったのに。

病院で点滴をしたまま歩くのがやっとの私に――大丈夫だ――って・・・

この人って・・・。


「俺は加藤三郎、君は?」



「ひ、ひなた、柊ひなた。」


それからお兄ちゃんは時々私のところへ来てくれるようになった。


最初、お兄ちゃんが病室に来た時には本当にびっくりしたわ。
どうしてここがわかったのかって。

お兄ちゃんは、そんなのナースステーションで聞けば教えてくれるよ、なんて笑っていたけど、
そんなことが出来たのはもう随分前のこと。

地下都市での生活が始まってからは、物騒な事件が多くなって
病院のセキュリティーも強化されたの。

特に15歳以下の子供たちが入院する病棟の管理は厳しくなっている。

実の親兄弟でさえ、指紋照合をしなければ病室には入れない。

初めて他人が入るには、入院患者の親か兄弟が付き添ってナースステーションへ行き
IDチェックと書類手続きが必要になる。

IDチェックだけで入れる人なんて・・・
そんな人たちは本当に極々一部の人たち。

お兄ちゃんが普通のお仕事をしている人じゃないってことは
初めて会った時からなんとなく感じていたわ。

長い病院暮らしで世間知らずの私でも、そんなことくらいはわかる。

だけど、私はお兄ちゃんが何をしている人なのか聞かなかったし
お兄ちゃんも自分の仕事のことは話さなかった。

そして、私も自分の病気のことは話さなかったしお兄ちゃんも聞こうとはしなかった。

聞かなくても・・・話さなくても・・・
お兄ちゃんは知っている、きっと。

でも、お兄ちゃんの仕事の事や私の病気のことなんて口にしなくても
他に話すことはたくさんあった。

と言っても、私は外の世界なんてほとんど知らない。
頭の中にあるのは本やインターネットから得たことばかり。

それを知ってか知らずか、お兄ちゃんはいろんなことを話してくれた。

だから、お兄ちゃんが来てくれた日は時間があっという間に過ぎて行った。


「ひなちゃん、このところ顔色がいいわね。発作も出てないし。」


お兄ちゃんと知り合って1か月が過ぎた頃、担当の看護師の日下さんにそう言われた。

「え?」

言われてみればあの日屋上で倒れそうになって以来
息切れも眩暈も起きていない。

「加藤さんのせいかしら?」

「お、お兄ちゃんの?」

「そ、<お兄ちゃんの>」

日下さんはベッドサイドへ来て点滴の残りをチェックすると、にんまり笑ってそう言った。

「加藤さんが来るようになってから、ひなちゃんよく笑うようになったし
 食事もちゃんと食べるようになったわね。」

えっ、そ、そうなの?そうなのかしら?

「いいわねぇ、加藤さんってカッコイイし優しいし。羨ましいわぁ。」

えっ、う、羨ましいって??どうして?

少し首を傾けて、じーーーっと私を見るその目は何か言いたそうだ。
その目はにっこり笑ってるんだけど。

でも、私には日下さんが何を言いたいのか、全然わからない。

だけど、なぜか頬が熱くなる。どうして?



「あら、噂をすればね。じゃあ、ひなちゃん、また後でね。」



日下さんはにっこり笑ってそう言うと、お兄ちゃんに会釈して出て行った。


その日、お兄ちゃんは私を屋上に連れ出した。

私の体調の良い日はそんなこともあったので
その時は特に何も思わずにお兄ちゃんの後ろについて行った。

でも、何か…変…。
なんだかいつものお兄ちゃんと違う。



「ひなちゃん。」


お兄ちゃんは私を木陰のベンチに座らせると、私の正面に回って口を開いた。

「俺は、しばらくここへは来られない。」


―― えっ? ――


「当分の間、来られないんだ。」


お兄ちゃんはもう一度そう言うと、片膝を立てて座って私の手を取った。

「しばらくって…?どのくらい?10日くらい…なの?」

余りにも突然のことで、戸惑っている私の言葉にお兄ちゃんはゆっくりと首を振った。

「じゃあ…2週間?」


―― …違う…――


「じゃあ、1か月?…2か月なの?」



 「ゲスト様のお話」へ   (1)へ   (3)へ